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松江地方裁判所 昭和32年(わ)98号 判決

被告人 中浜集

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実は、

被告人は、電探船第二八あけぼの丸(総屯数四六屯)の船長であるが、昭和三二年一二月一七日午後八時三〇分頃、浜田市瀬戸ヶ島西方海峡を南航中の同船船橋において操舵中、「ヤンツー」池下進(当三二年)が因縁をつけて暴行し、且、操舵の邪魔をしたので憤激の余、その場に在つた出刃庖丁で左後方より同人の左胸背部を力一杯突き刺し、因つて同人を左胸部刺創に因る動脈損傷に基き失血死させたものである。

というに在る。

よつて按ずるに、司法警察員警部補中村豊作成の実況見分調書、医師斎藤紀時作成の鑑定書、当裁判所の証人藤山広に対する証人尋問調書、被告人の当公判廷における供述等に徴し、起訴状記載の日時、場所において、公訴事実にいうが如き事件の発生したことは極めて明らかである。

これに対し、弁護人は、

(一)本件において、被告人の行為は、刑法第三六条第一項にいわゆる正当防衛である。

(二)仮に、然らずとするも、本件は「盗犯等ノ防止及処分ニ関スル法律」(以下盗犯防止法と略称する)第一条第一項に掲げる場合に該当する。

(三)又仮に、然らずとするも、本件は、尠くとも盗犯防止法第一条第二項所定の場合に該当する。

と主張するのである。

さて、右各証拠と和田隆好(昭和三二年一二月一七日附、同月一八日附及び同月一九日附)、佐々木英治(同月一七日附、同月一八日附及び同月一九日附)、浜崎久松(同月一七日附、同月一八日附及び同月一九日附)、藤山広(同月一七日附及び同月一九日附)及び西川義教(同月一九日附)の司法警察員に対する各供述調書、藤山広の検察官に対する供述調書(同月二七日附)、被告人の司法警察員(同月一八日附及び同月一九日附の分二通)及び検察官(同月二六日附)に対する各供述調書、第三回公判調書中、証人小林清の供述記載部分、浜田測候所長作成の回答書(昭和三三年一月二八日附及び同年三月五日附)、浜田区検察庁松島事務官発信に係る電話聴取書並びに当裁判所の検証調書とを綜合すれば、(1)被害者池下進は、浜田港に巣喰う俗に「ヤンツー」と称せられる不良無頼の徒輩の一人であつたこと、(2)いわゆる「ヤンツー」なるものは、常に漁港内に出没し、漁獲物の陸揚のため、漁船が入港し来るや、集団的にその周辺に群がり、恰も陸揚の手伝をなすかの如く装つては、不良船員に渡りをつけて、漁獲物を極めて不当な廉価で買受け、無断で船内に入り込んでは、船員に強要して運び残りの漁獲物を無償で貰い受け、又は、自らこれを拾い集め、或は、船員が惣菜用として保存している魚介類を盗み取り、かかる方法を以て入手せる漁獲物は、これを他に売捌いて渡世しているものであること、(3)而して、偶船員から制止されることがあれば、矢庭に兇器を所持しているかの如き素振を見せて脅迫し、場合によつては、実際暴行にも及び兼ねないので、一般船員から蛇蝎の如く忌み嫌われ、而かもひどく怖れられているものであること、(4)本件発生当日も、被告人が船長として乗組んでいた室崎漁業部所属の運搬船兼用の電探船「第二八あけぼの丸」が浜田港に碇泊し、漁獲物の陸揚を終つてから、冷凍用の氷を積込んでいた際、これを狙つていた池下は、飲酒の上かなり酒気を帯び、同じ「ヤンツー」仲間の佐々木英治と共に、無断で同船内に入り込み、船員連中に対し、「魚を呉れ」と申向けて、運び残りの漁獲物の分配を求め、被告人等から、もう残存していないとて拒絶されるや、今度は自ら勝手に船内を物色して探し廻り、被告人等から、再三退去方要求を受けたにも拘らず、全くこれに応ずる気配なく、又被告人等としては、相手が兇暴性のある「ヤンツー」のこととて、後難を恐れ、強いて池下等両名を船外に追い出すこともなし兼ねる状態であつたこと、(5)そのうち、午後八時過頃、「第二八あけぼの丸」は氷の積込を終つたので、船長たる被告人、機関長浜崎久松、無線通信士藤山広(船員の間では無線局長と呼ぶ)等が右池下等両名に対し、こもごも程なく同船が出航する旨を告げて同船から退去方要求したが、池下等両名は、なおも頑としてこれに応じないので、ここにおいて、被告人等は協議の末、このまま出航するも已むを得ざるものとし、池下等両名を乗船させたまま母船の操業箇所に急行すべく出航するに至つたこと、(6)然るに、池下においては、自分等を乗船させたまま出航せる被告人等の右措置を以て、自分等を愚弄せるものと解し、これに憤激して深く含むに至つたこと、(7)当夜は小雨が降り続き、海上の気象状況は、良好でなかつたが、同船が浜田港外に出て瀬戸ヶ島、馬島間の海峡を通り、馬島の燈台が直線に見える頃には、風浪殊の外烈しく、時化模様となつて、大社町沖合で操業中であつた母船も、最寄の漁港に待避するとの情報が入つたので、被告人は、前記藤山無線通信士等と協議の末、浜田港に引返すよりも、寧ろ、地勢上比較的安全な瀬戸ヶ島東方湾内に一応避難すべく、同船を反転したこと、(8)同船の操舵室は、縦〇・六米(左、右舷側に平行部分)、横二・一五米の狭隘さのため担当係員以外の者が入ること自体操舵の支障となる位余裕の尠い状態であり、又、夜間航行中は、羅針盤の薄明のみを残して消燈するところ、同所では、被告人が操舵に従事し、その右側で、藤山無線通信士が前方を注視していたが、同船が瀬戸ヶ島、馬島間の海峡を南航中、午後八時三〇分頃、酒気を帯びた池下が、突如無断で、右の如く極めて狭い操舵室に侵入し来り、操舵中の被告人に対し「おい、お前が船長か」「船をえらい沖まで出しきつたなあ」「陸に上つたら覚えておけ」等の暴言を吐くのみか、被告人の背後から、右肩や首の辺を二回位殴打し、次で、被告人の身体を舵輪に押しつける等の暴行を加え、更に、被告人を左側に押しのけ、自ら勝手に舵輪を廻転させていやがらせをなすので、被告人は、左手で舵輪を握つたまま右手を以て、更に殴りかかつて来る池下の腕を払いのけたところ、被告人の右手が池下の顔に当つたため、池下は益々猛り狂い、遂に舵輪にしがみついて被告人の操舵の妨害を始めたが、その間、被告人及び藤山無線通信士が池下に対し、再三「危いから止めろ」と申向けてこれを制止し、且、操舵室から退去方求めたにも拘らず、同人は全然耳を藉さなかつたこと、(9)ところで、当夜の気象状況は前記のとおりの荒天であつたが、而かも、暗夜で視界が悪く、且、現場は暗礁の多い危険な水域に差蒐つていたこと及び(10)前記のとおり、被告人は舵輪の左側で左手を以てこれを握り、右手で池下の暴行を防禦する態勢に在つたが、池下が被告人の操舵の妨害をなし、よつて同船の操縦が困難となるや、ここにおいて、被告人は、池下の傍若無人の行動に対し、憤激すると共に、このまま放置するとき、同船は坐礁難破して仕舞う危険があると考え、藤山無線通信士に対し、「局長、一寸舵を持つて呉れ」と申向け、同人をして操舵を交替せしめた上、偶、舵輪の前方の台の上に在つた出刃庖丁を右手に持ち、池下の左後方から矢庭に同人の左胸背部を力一杯突き刺したことを認めることができる。(被告人は、当公判廷において、「自分が池下を突き刺したのは、藤山無線局長をして操舵を交替せしめた直前である」旨供述し、前掲被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書中にも、右同趣旨の供述記載部分があるけれども、前掲証人藤山広の証言等に照し、被告人の右供述或は供述記載部分は、これを措信することができない。)

如上認定の各事実に照し、前記の如き弁護人の主張につき考察するに、被害者池下は、故なく被告人の看守する操舵室に侵入し、且、要求を受けて同所より退去しなかつたものであること及び池下の操舵室内における暴行が不正の侵害であることは、極めて明瞭である。併しながら、前記のとおり、一且、被告人が藤山無線通信士に対し、「局長、一寸舵を持つて呉れ」と申向け、同人をして操舵を交替せしめた上、専ら池下の暴行を防禦し得る態勢を整えたものである以上、その際における客観的事情として、不法侵入者たる池下の侵害行為は、被告人等乗組員全員の生命、身体等に対する危険の切迫性、直接性において、未だ到底これを以て急迫せるものとは認め難い。然らば、本件において、被告人の行為が刑法第三六条第一項にいわゆる正当防衛であるということはできないし、又、本件が盗犯防止法第一条第一項に掲げる「現在の危険」のある場合に該当するともなし難い。尤も、被告人が藤山無線通信士をして操舵を交替せしめた直後、前記の如き気象条件下、而かも、暗礁の多い暗夜の海上において、船長としての経験の浅い被告人として、船舶の安全、惹いては、乗組員全員の生命の安危に対する不安に駆られ、一刻も早く不法侵入者の操舵に対する妨害を排除せんものと焦慮する余、その興奮と狼狽の結果、本件行為に出でたものであることは、前掲各証拠によつて明らかであり、他方、不法侵入者たる池下は、二四歳の被告人よりも年長であり、その腕力も優れ、而かも、日頃一般船員から蛇蝎の如く忌み嫌われ、且、怖れられている「ヤンツー」である上、当夜も飲酒の上かなり酒気を帯び、その執拗、理不尽なる本件直前までの行動よりして、容易にその不法侵入或は暴行を中止すべくもない情勢に至つたものであることを推認し得るのである。かかる状況の下において、被告人が本件行為に出でたことについては、まことに宥恕すべき事情ありといわなければならないから、結局、本件は、盗犯防止法第一条第二項、第一項第三号所定の場合に該当するものと断ぜざるを得ない。弁護人の主張は、結局理由がある。よつて、刑事訴訟法第三三六条により、被告人に対し、無罪の言渡をなすべきものとする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 組原政男 西村哲夫 武波保男)

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